雨と万年筆

雨の日は憂鬱だ。

陽射しも無く、どんよりとした気持ちで朝を迎える。

雨の日の為に、それ用の靴がない事に毎度塞ぎ込み、大して頼りにならない傘に片手を塞がれて出かけなければならない。

喫茶店は、そんな雨の日を平穏に過ごすことができる唯一の場所だ。

温かいコーヒーを飲みながら、忙しなく行き交う人と雨粒を窓越しに眺める。

流れるクラシックと雨音を耳にしながら、私は仕事をする。

今私は、そんな雨の日の喫茶店でこの文章を書いているのである。

この物語は私が若い頃、将来に漠然とした不安を抱えながらも、幸福な日々を過ごした体験談である。

私が実際に体験したものであるから、日記のような、私的な文になってしまうことを許してほしい。

私は大きな期待という二文字を背に、上野駅のホームに降りた。

雪の残る故郷の東北から新幹線で3時間。変わる景色を眺めながら、これからの生活に心を躍らせていた。

大学時代に書いた小説が出版社主催のコンテストに入賞し、東京で小説を書かないかとオファーを受けた私は、元々書く仕事がしたいと考えていた事と、東京の生活への憧れもあって、そのオファーを二つ返事で承諾した。

田舎育ちの私にとって東京の街は、実に刺激的だった。

上野駅を降りた後、私は恩賜公園を歩いた。

長閑な銀杏並木に、つらなる美術館。

動物園めがけて多くの家族が訪れ、その道中の大道芸に足を止める。

観光客から熱心な美術学生まで、その一人一人が目を輝かせているのであった。

私は公園内にあるカフェで買ったコーヒーを片手に、その一つ一つを噛みしめる様に歩いた。

ここには全てがあり、全てを叶えてくれる。そう感じたのだった。

そんな希望が打ち砕かれるのには、そう多くの時間を要さなかった。

持ち込んだ原稿は悉く跳ね返された。

オファーされて来たはずなのに、私の担当者は厳しく私の原稿を批判した。

初めのうちこそ若手に対する試練だと、意気込んで取り組んでいたものの、三度連続でボツにされると、私の中に溢れていた創造力の泉はいよいよ枯渇した。

どれだけ頭を悩ませても、アイデアが出てこない。

不意に絵を描いた幼い子どもが、親にその絵の出来を否定されると、子どもはもう率先して絵を描かなくなるという話を聞いたことがあるが、当時の私は全くもってその子どもと同じ環境下にいた。賞賛という大きな期待を胸に持ち込んだ原稿を木っ端微塵にされるうちに、自らの才能、ひいては自分自身を否定された思いになり、そのうちに何も思い浮かばなくなった。

「時代遅れだ。」

「今年に入って君は何か読んだ?そもそも君は現代小説を読んだことがないの?」

正直に言えば、今出版されている大衆小説にはそこまで魅力を感じられなかった。

時代背景が近すぎると、自分の中で妙な現実味を帯びてしまい、純粋な物事の美しさを味わえなかった。

試しに書店に行って「話題の新書」を手に取っても、気持ちは変わらなかった。

それに加えてこれが編集部、そして世間が求める小説なのだとしたら、そもそも自分は小説に向いていないのでは、とより鬱屈した感情になるのであった。

その晩、私は職場の最寄駅近くにある居酒屋に行った。

カウンターで酒を飲みながら、考えてしまう自分がいた。

招待され、歓迎されると思っていた世界に踏み込んだ瞬間、お前に用はないと跳ね除けられ、惨めな思いで地元にも帰れず、いっそこのまま消えてしまいたい。

せめて、誰かに「あなたのおかげで」「君がいてくれて良かった」となどと言ってもらえたら、どれだけ救われるだろうか。

そんな事を考えてしまう自分が惨めになり、その度に美味しくもない酒を飲み続けた。

どれだけ飲んだだろうか、時間が経ち、店員に心配されながら店を出て、駅に向かう。

そして家に向かう方面の電車に乗った。席はガラガラで、一番端の席に半ば倒れこむ様に座った。最寄駅まで、六駅。そこまでは覚えている。ただその次のシーンで私は、駅員に肩を叩かれて電車を追い出されている所だった。乗り過ごしてしまったのである。

朦朧としていた意識が徐々に醒め、状況を把握しようと頭を働かせる。

反対の電車は、既に終電を過ぎている。

その前にここは一体どこだろうか。

戻りつつある意識の中で駅の案内表示を見た瞬間、私は絶望した。

そこは東京のはずれの、山の麓だった。

地元の友人が、都内の大学仲間とここにある山に登ったという話を聞いたことがある。

そもそも東京にそんな大きな山があるのかと、当時は思ったものだった。

そんな場所にこの夜中の一時、まさか自分が降り立つことになろうとは思ってもみなかった。

酔いは完全に醒め、冷静に思考を巡らせた。

タクシーで帰ろう。高く付くが仕方ない。明日は締切が迫った原稿を書かなければならない。

それに気軽に泊まれる場所も、第一電灯すらほとんど付いていないこの駅から、一歩でも踏み出して宿を探そうという気にはなれなかった。

タクシー乗り場には、幸いにも一台だけタクシーが停まっていた。

終点駅である以上、こうして終電を逃す上客がいる事を、運転手は知っていた。

タクシーに乗り、最寄の駅名を告げる。

「お客さんはラッキーですよ。ここは中々タクシーも停まりませんからね。」

運転手がそう言って車が少し動いた時、駅から人影がぽつんと見えた。その人影はきょろきょろと辺りを見渡した後、タクシー乗り場に目を向けた。

その瞬間、私は心がざわつくのを感じた。

「この時間はほんとにタクシーが拾えないんですか。」

「ああほんとに拾えないよ。こうやって終電の時刻に一台待っているだけで、本当に来ない。何せここから最寄の営業所まで1時間近くかかるからね。呼んだとしてもそれなりにかかるよ。」

「そうですか、そうしたら少し、待ってもらえますか。」

私はドアを開け、タクシー乗り場まで小走りで戻った。

そこに居たのは女性だった。落ち着いた身なりに身を包んでいたが、不安に押し潰されそうなその瞳は、見知らぬ土地で母親とはぐれた少女のものと同じだった。

「良かったら、乗って行きましょう。」

突然の問いかけに、女性は怪訝な表情を浮かべていた。

「ぼくも乗り過ごしてタクシーに乗った所なんですけど、ちょうど駅から出る所を見かけたものですから・・・営業所がとても遠くて、呼んでも一時間以上かかるみたいですよ。それにこんな山奥で・・・」

「どこまで、ですか?」

喋り過ぎた、と思った。自分の気遣いのなさを心から反省した。

「中央線の、阿佐ヶ谷です。」

「私もです。」

女性は、俯きながら答えた。

「それならちょうど良かった!一緒に乗って行きましょう。」

ありがとうございます、と一言、顔を半分だけ上げて、彼女は答えた。

その目は、涙で少しだけ潤んでいる様にも見えた。

その目の不安げな美しさに、私は心を奪われたのだった。

意外にもタクシーの中で私たちは、お互いの話に花を咲かせた。

北海道出身の彼女は演劇の専門学校を出て、舞台女優を目指して今年から東京に来たという。駅ビル内のアパレルショップでフルタイマーとして働きながら、夜間と休日は稽古に通っている。

「とにかく東京に行けば何かがあるって、そう思ったの。」

一瞬表情を輝かせて彼女は話した。

「でも、生活費の為に働いているお店が本当に厳しくて。夢のために働いているのに、仕事がずっと入って稽古も休みがちになってしまうし、休みの日も疲れて外に出られなかったり・・・。今日も作業が続いて結局この時間まで働いて。ヘトヘトになって電車で寝ちゃって、気付いたら辺鄙な土地にいるし・・・。」

「挙げ句の果てに知らない男にも声を掛けられて。」

「ほんとに、最悪の日。」

二人は笑った。

「でも、ありがとう。声を掛けてくれて。」

窓の方を見ながら彼女は言った。気付くと車は見慣れた景色を走っていた。

「本当に助かりました。私はここで。」

そう言って彼女はタクシーを降りた。

助けられたのは、むしろこちらの方だった。何か人の為になることをして感謝されることが、人の心をどれだけ楽にするか、身をもって知った瞬間だった。

ドアが閉まる間際、目が合った。彼女は微笑んだ。

また、会えますか。

その言葉はかけられなかった。私は、それで良かったのだと思った。

この美しい時間を、美しいままにしておきたかった。

しかし、現実は時に自分が思っている以上に劇的な展開を迎える事がある。

あの夜から一週間経ったある日、私はいつも通り、家の近くの喫茶店で新しいタイトルの原稿を書いていた。

落ち着いた木目調のカウンターといくつかのテーブル席で構成される店内は、近所の老夫婦が団らんしたり、営業マンが仕事の合間の時間を潰したり、思い思いの時間を過ごしている。

カウンター内の棚には様々な柄のコーヒーカップがびっしりと並べられ、注文を受けるとマスターがその中からさっとカップを取り出し、ドリップコーヒーを注ぐのである。

私は縁が金色に装飾されたブルーのカップに淹れられた濃いコーヒーを飲みながら、序盤の、主人公とヒロインが出会うシーンで頭を悩ませていた。

すると、店内で聞き覚えのある声がした。

顔を見上げると、あの日の女性がレジに立っていたのである。

あまりの驚きにしばらく呆然としていると、女性もそれに気付き、私の席に歩み寄った。

「どうしてここに?」

思わず私は聞いた。

「あの日の翌朝、ふらふらになりながらまた仕事に行ったの。その日も結局終電まで働いて。そしたらもう、疲れちゃったの。自分は何のために東京に来たのかって、あなたと話した後からずっと考えていて。それで前の仕事はやめて、この喫茶店で働く事にしたの。ここなら家からも近いし、マスターも理解ある人で、稽古に関しても寛容なの。」

日の当たる明るい場所で見る彼女の顔は、窓から差し込む明かりに優しく照らされていた。

あの日会った時より、顔色も良いように思えた。心のつっかえが取れたような、晴れ晴れしい表情をしていた。

「本当にこんな偶然ってあるのね。近くに住んでる二人が同じ日に終電を逃して、行きつけの喫茶店で働いてるなんて。」

私の心は歓喜に満ちていた。あの日別れた後、タクシーの中で、もう会うことはないのだと考えると、どうしてもやるせなさ、後悔の気持ちが沸き起こって来た。あの決断は間違っていたのではないか、もし相手ももう一度会いたいと思ってくれていたら。

「すみません。」

別のテーブルから声がした。

「良かったら、この前のお礼をさせてくれない?もし平気なら、今日の19時に駅前で。」

女性はそう言い残して奥のテーブルへ向かった。

こんな事が本当にあるだろうか。その日私は原稿もそこそこに、彼女の事を考えた。

それから二人は何かと顔を合わせるようになり、彼女との交際が始まった。

程なくして私たちの関係は、変わった形でより緊密になった。

ある日、仕事終わりに西荻窪のレストランで食事をしていると、突然彼女が神妙な面持ちになった。

「どうしたの?」

注文した料理に実は、苦手な食材が入っていたのだろうか。

私は普段ネガティヴな思考を持っているのに、こんな時には楽観的な思考が働くのであった。

「お願いがあるんだけど・・・。」

流石の私もこれから発せられる言葉の重大さを察した。心臓の鼓動が早まる。

「あなたの部屋に、少しの間居させて欲しいの。」

彼女の言葉を、私ははじめ理解できなかった。

「来月から、今の部屋を出ないといけないの。仕事も変えたし、元々今の自分には見合わない所に住んでいたのもあって、家賃を払えていなくて・・・」

話しながら彼女はずっと下を向いていた。

「次の部屋が見つかるまでの間だけ。こんな事、会って間もないあなたにお願いする事じゃないのは分かってる。だけど、あなたは善い人だから、きっとあの時みたいに、助けてくれるんじゃないかって・・・」

彼女は少しだけ顔を上げて私を見つめた。彼女の表情は出会った日の夜と同じく、少女の様な、今にも泣き出しそうな不安に満ちた表情で、その瞳には、人にいやと言わせない力があった。彼女はそれを知ってか知らなくてか、私の方を控えめに、しかしじっと見つめるのだった。

「本当に、そうするしかないの?」

私の気持ちは、とっくに彼女を受け入れていたが、しかしこのまま無抵抗に承諾したのでは、自分の立場がない。だから私は、無意味な返答をした。

「こんな事をお願いするのは、恥だわ。夢を見て東京に出てきて、頼りにする人もなく、帰ることもできず、路頭に迷った挙句に会って間もない男の人に、同棲を申し出るなんて。普通の人なら、きっと嘲笑うでしょう。でも、私が頼りにできるのはあなたと、あなたのその善良な人格しかない・・・。」

彼女の目には、涙が浮かんでいた。私は、そんな彼女とは対照的な、のんきな表情で答えた。

「朝は紅茶派?コーヒー派?残念ながら、君に選択権はないけどね。」

彼女は涙を浮かべたまま、いじらしく笑った。

「仮に紅茶派がコーヒー屋で働いてたら、そんな不幸は無いわね。」

そしてまた、私を見つめて言った。

「ありがとう。」

こうして、彼女との生活が始まったのだった。

私の私生活における幸福感は人生の中でも最高潮に達した。

一方で、私の仕事は相変わらず廃れていた。

完全に負け癖が付いてしまっていたのだった。ある日、事務所に行くと編集部の人たちが私を奇異な目で見ていた。

そもそも、私の出版社の中での人間関係は最悪だった。

それは私が彼らの付き合いに応じず、酒も飲まず、遊びにも行かないからだ。

それは、私がこの地に着いた時から決めていた事だった。私は小説家としてこの地で名を挙げる為にここに来たのだから、遊んだり、呑んだくれたりするのはその夢を阻害するものだと考えていた。それに東京は、ただでさえ気分を高揚させる場所や機会がとても多く、それだけに、余計私はそれに反発するのだった。

そうやって私の付き合いが悪いのをいい事に、私は人びとに様々な「いわく」を付けられた。

そんな職場で目も合わせず、他人同様に接する彼らが今日のような態度をとるのは、何かまた良くないことを噂されているに違いないと、私は感じた。形だけの挨拶をして、いつもの様に担当者に原稿を持って行く。

担当者が原稿に目を滑らせる。

数十枚の原稿をペラペラとめくり、ものの1分も経たないうちに担当者は言った。

「これじゃ、全く駄目だ。執筆もそこそこに、綺麗な女性と楽しんでるみたいだが、君の上京物語に彩りを加える為のネタ作りのつもりかね?東京に君は何をしに来たんだ?女に目が眩んだ夢見る若者が、どんな風になるか、そんな物語、ありきたり過ぎて誰も目にしないと思うがね。」

それ以上の言葉は覚えていない。私はその場で後ろから倒れた。比喩ではなく、本当に気を失ったのである。

目を覚ますと私は病院のベッドで寝ていた。

医師からは、ストレス性の反射性失神と診断された。

強いストレスを受け、気を失ったのだそうだ。何と無様な有り様だろう。その衝撃で起きた脳震とうで頭を数針縫った。

治療のため、私は入院を余儀なくされた。

退院後、私は出版社を正式に辞める事にした。それはごく自然な事だった。私はスキャンダルに対して、気絶という最悪の形でその事実を肯定したのである。とにかく私はそこで追い詰められており、一刻も早く環境を変える必要があった。

地元に戻ることは、考えられなかった。一度決めた以上、何も成果を挙げずに帰ることは出来なかった。

神童と言われ、輝かしいスタートを切ったつもりの作家人生は地に落ちたが、私は夢を諦められる程、心が老いていなかったのである。

今まで住んでいた社宅を引き払い、近くの安いアパートに住居を変えた。

部屋は狭くなり、ずっと古く粗末な住居だった。

それでも、愛すべき彼女との生活は変わらず幸福だった。

朝は彼女がトーストとベーコン、目玉焼きに小さなサラダを添えた朝食を作ってくれた。

私はその間、1杯と半分の量のコーヒーをポットに淹れた。自分は1杯分、彼女のカップには半分のコーヒーと、温めた牛乳を注いだ。

朝食が終わると、彼女は仕度をして職場へ向かった。

私は少し遅れて午前中、彼女の職場である喫茶店で小説を書き、午後は小さい出版社で小説の校正を行なった。

校正の仕事は私が退職したと知った地元の友人が紹介してくれた。

友人は父親が地元で最も大きな出版社の役員をやっていて、その繋がりで今の会社に取り合ってくれたのだ。

「お前は地元じゃちょっとしたスターなんだぜ。戻って来たら書きたいものが書ける。仕事だっていっぱいあるぞ。」

心配する友人は電話越しに伝わる真剣な口調で言った。

「大丈夫。今の暮らしもそれはそれで気に入ってるんだ。それに、紹介してくれた仕事だって悪くないしさ。」

強がりにも聞こえたが、私にとってそれはあながち嘘ではなかった。

以前と比較して、給与も待遇も決して良いわけではないものの、この仕事は私にとって非常に有意義な経験であった。

様々な作家の文章を1日に何冊も触れる事で、その作家の文体、表現など、多くの学びを得ることができ、それが自分の執筆に対する糧になった。当時の若い私にとって、その経験はなくてはならないものだった。

夜になり、仕事から帰ると、彼女は夕食の支度をしていた。

私は魅惑的な料理の香りに気分を高めながら、テーブルにクロスをひき、食器とグラスを用意した。

グラスには、時折ワインを少しだけ注いだ。

決して高価なものではなかったが、2人にとっては十分な贅沢だった。

「お疲れ様。」

控えめに乾杯をして、取り留めのない会話をしながら過ごす夕食の時間は、何よりの幸せだった。

ベッドに横たわりながら、ふと、私は将来に対する漠然とした不安を抱えていた。

今は幸せだとしても、身寄りのない街で、アルバイトに近い様な仕事。小説を書き続けても、時代遅れの仕事にならない自己満足である。

彼女だって、そもそも生活を支える為に共に暮らし始めたはずなのに、今やどちらが支えているのか分からない状況だ。

本当はもっと裕福な人と暮らして、女優の仕事や稽古に集中したいと思っているかもしれない。

そんな私の悩みを知ってか知らなくてか、彼女はこちらを振り向いて、寝惚け眼で私に優しく微笑んだ。

その微笑みの美しさ。

私は涙を堪え、そっと彼女の髪を撫でた。

彼女はまた、安心した様に眠りに落ちた。

そんな日々を送っているところに、友人から、久しぶりに連絡が入った。

「地元紙のコラム記事を書いてくれないか。それも専属で。もちろんこっちに戻って来てだ。お前の待ち望んでいた事だから、今答えて貰ってもいいが、大事な事だ。返事は1週間後に。」

私はしばらく呆然としてしまった。

いずれは小説より、コラムやエッセイを書きたいと思っていたのだ。

消費されるフィクションではなく、読む人の日常に溶け込み、心地の良い気付きを与えられる、そんな記事を書きたかった。

それに、その地元紙は私の町では一世帯に一部必ず届く、町で最も読まれている新聞で、その新聞に記事を寄稿出来るのは大変な栄誉であり、これまでにないチャンスだった。

しかし、私の夢の実現は、東京で夢の実現を目指す彼女との別離を意味していた。

タクシー乗り場にいた彼女の姿と、レストランで話す表情が重なる。

彼女は私に二度救われ、それによって私を、一度目は人生の絶望の淵から救い上げ、二度目で幸福の彼方へと導いた。

私はこの人生で一番の選択を迫られた。

家に帰ると、彼女はいつも通り夕食の支度をしていた。

「愛犬に首輪を残して逃げられた子どもみたいな顔ね。」

「残念ながら、一家揃って猫派でね。家には首輪もしてない猫しか居なかった。」

力のない返答に、彼女はゆっくりと近づいて、微笑んだ。

「ねえ。あなたってすぐ人生に絶望した様な顔をするし、ネガティヴなのに、あなたの言葉とか、あなたが書く文章って凄く、実はとても前向きだと思うわ。”悲しげな表情の美しさ”とか、”質素な暮らしの豊かさ”とか、一見すると暗い出来事だったりする事に綺麗なものを見つけて、案外良いものだよって教えてくれる。私いつも思ってるの。ああ、そういう捉え方もあるんだなって。それで幾分明るくなれるの。だから私は幸せ者だわ。そんな言葉を創り出せる人の、一番近くにいれるんだから。万年筆で書いたみたいな、古臭い言葉だけどね。」

私は、涙を堪えることが出来なかった。

彼女は少し驚いた後、口を緩ませて言った。

「作家って言うのは繊細なのね。それよりお腹が空いたわ。ご飯を温め直すから、テーブルを用意しておいてよね。」

「君に倣って演技を勉強してるんだ。どんな幸せな気持ちにいても泣けるような演技をね。」

二人はまた笑った。

雨は相変わらず降り続け、止む事はなさそうだ。

今、私がいる喫茶店こそ、原稿を書く場所として当時からずっと通っている、あの喫茶店だ。しかし、ここにもう彼女は居ない。

彼女は今、ここから二駅先にある建築会社の事務をしている。

女優の夢を諦めた訳ではないが、二人の生活の為、より安定した正社員の仕事を選んだ。

私は校正の仕事をしていた小さい出版社で、作家として小説を書いている。

「古風な純文学を、現代の舞台に置き換えた、ありそうでないタイプのフィクションだ。」

相変わらず時代遅れの小説だが、新しい担当者はそう言って気に入ってくれている。読者の反響も悪くはない。

生活は相変わらず質素ではあるが、以前よりは人生に希望が満ちていると思う。

地元の仕事は、考えた末、断った。友人には呆れられたが、それで良かったと今は思う。

この決断が正しかったのかという問いには、誰も答えることが出来ないだろう。

ただ私は選んだのだ。つつましくも幸福な日々を。