甘い煙草

鎌倉というのは不思議な魅力に溢れている。

いつからそんな気持ちになったのか、定かではないが、最初に訪れたのは少なくとも大勢の人と同じように、小学生の修学旅行であることは間違いない。当時は大仏があって、小町通りで木刀を買うのは不良だから止しなさいと言われて、そう言われると幼心が一層掻き立てられつつ、実際には買う勇気もなく、とぼとぼと帰ってきた記憶しかない。

確実に鎌倉という街の魅力に気づいたのは、二年前、休暇で一人、由比ヶ浜の安宿に泊まった時だ。

朝食の後チェックアウトを済ませ、外に出ると、そこには紛れも無い生活者の姿が見えたのである。

近所のスーパーで夕食を買い、江ノ電に乗って通勤する人々。

カフェに入れば仕事前に一杯のコーヒーを求める人や、フリーランスと思われる若者がノートパソコンを開いて作業をしている。

当たり前のことではあるが、休日の日中は大勢の観光客でごった返していたのが嘘のように、そこには鎌倉で暮らす人の姿が見えたのである。

その時私は、一つの街が、時間によって観光地としての賑やかさと、そこに暮らす人々に寄り添う静けさが共存する奥行きに魅了されたのである。

今回も海沿いの宿を一人分予約して、鈍行を乗り継ぎ、鎌倉を目指した。

一人で旅行する事の良い面は、ひとつひとつの過程を楽しむことにあるだろう。

目的地に辿り着くまでに出会う、道行く人や、店の店主など、そこにいる人の姿ーー。

今回の旅行の目的の一つは、あるカフェに行くことにある。

私はカフェというものが大好きであるが、そんなカフェは大きく三つの種類に分けられる。何かしらの目的を果たす為に訪れる店、何も目的を持たずに訪れる店、そして、訪れる事自体が目的になる店だ。

今回訪れるカフェは、紛れもなく三つ目に当てはまる。

それにしても全く鎌倉というのは非常にコンパクトにできていて、鎌倉駅周辺の喧騒から江ノ電を三駅も乗れば、山々に囲まれた大自然を味わうことができ、そこを抜けると今度は広大な海岸が広がっている。山と海を一度に味わうことができるのも、鎌倉の欠かせない魅力の一つであろう。

話が少し逸れたが、目的の店は、江ノ電の極楽寺駅と長谷を結ぶ山道から山奥に向かって階段を登った、民家が立ち並ぶ場所にある。実際の家屋を改装した店内は、昭和の日本家屋そのもので、低い天井に急斜面な階段を登った二階は、開け放した窓から心地よい風が吹き、聞こえる音といえば、階下で食事を準備する音と、鳥の囀りだけなのである。

ヨーロッパのアンティークに囲まれたインテリアと日本の伝統家屋が絶妙な調和を保ち、天井にはドライフラワーが敷き詰められた籠がぶら下がっていて幻想的な雰囲気を醸し出している。

店内に居ながら自然と一体化しているかのような田舎の郷愁と、南仏の非日常が合わさる、自然を愛する者にとってのユートピアがここにはあるのだ。

私は野菜をふんだんに使った古典的なペペロンチーノとコーヒーを注文し、持ち込んだ文庫本を読みふける。

その時間は高度に文明化された社会から解放され、束の間十九世紀後半の印象派画家が描いた楽園を味わうことが出来るのである。

カフェを後にした私は予約していた宿にチェックインした。

その宿は宿というより、三階建の一般的な住居そのものであり、私が案内された部屋も、まさしく実家にある部屋の様な、シングルベッドにデスクが配置された、家庭的な一部屋だった。

靴を脱いで荷を降ろし、ベッドで少しまどろんでから、夕食の為に再び出掛けた。

夕食をどこで取るかは特段決めていなかったので、道中たまたま見かけた長谷の路地にある小さなカレー屋へ入る事に決めた。

カレー屋は二階建てで、客は私の他に常連と思われる一人客が一階に一組、学生の観光客が二階に一組と、落ち着いていた。

鎌倉の夜は得てして静寂に包まれている。

店主は地元の同じく飲食店を経営していると思われる常連客と談笑しながらも、一見である私に気を配りつつ手早く料理を運んできた。

煮込んだ豚肉がたっぷりと入った欧風カレーは程よい辛さに何種類ものナッツ類が散りばめられていて、その香りと豚肉の柔らかさに驚きながらあっという間に平らげてしまった。

カレー屋を出た後は夜の江ノ電に乗り、稲村ヶ崎にある温泉に入った。

温泉を出るとすぐ、再び江ノ電に乗り、宿のある和田塚駅に降りた。

宿に戻ってすぐ、煙草が吸いたくなり、案内してくれた青年に声をかけると、一階のテラスを案内された。

「ぼくも吸っていいですか?」

青年は控えめに言いながらテラスの椅子に座った。

そして私がどこから来たのか、どこに行ってきたのか等、旅行者と現地人がする一般的なやりとりを何度か繰り返した。

「へぇ!素敵な場所ですね!行ってみたいですけど、僕はなかなかここを離れられないもんでね。」

青年は自嘲的な表情で答えた。

鎌倉に住みながら、自由に鎌倉を出歩けないとは皮肉なものだと思いながら、私は煙を吐き出した。

「でも、こうやってここに来る人から色々な話を聞けるから面白いですよ、この仕事は。鎌倉は本当にあちこちから沢山の人がやって来ますからね。この前もラグビーの元フランス代表選手がうちに泊まりましたよ。ワールドカップを観に来たんだって。」

先ほどの皮肉な感情を反省し、青年に就寝の挨拶をして部屋に戻った。

翌朝宿を後にした私は、小町通りにある老舗のカフェで簡単な朝食を済ませた後、旅のもう一つの目的である古物屋を目指して御成通りを抜けた由比ヶ浜大通りを歩いた。

この辺りは、周辺で生活する人の為の呉服、雑貨、食料品店が軒を連ね、そこで暮らす人々の日常に触れることができる。

古物屋の開店より少し早く着いてしまったので、私は店の近くの煙草屋で煙草を買い、軒先で一服しながら、その街並みを眺めた。

こうしたひとつひとつの動作はごく凡庸だが、ただ周囲の風景が違うだけで、日常から離れた風情を感じることができる。

しかし、こうして今は全てが新鮮で魅力を感じる事ができても、仮に住んで仕舞えば数日と待たずして日常へ変わるのだろうか。

習慣化とは人類の最も優れた生きる術であり、平凡という名の地獄への入り口でもある。

私はいつの時も、そうした習慣化がもたらす無感情を恐れた。

住むように旅をして、旅をするように暮らすことは出来ないのだろうか。

今現在心に溢れている幸福感を味わいながら、同時に複雑な心境になった。

煙草は心なしか甘く、煙はゆっくりと流れていく。

煙草を吸い終えるとほぼ同時に、店前のシャッターが開いた。

その古物屋は狭い店内にびっしりと家具や雑貨が並べられ、人が一人歩くので精一杯な程であった。

その品々のどれもが、その昔実際に使われていた道具であり、その機能性とは少し離れた愛くるしさ、余白を感じさせるデザインに心惹かれるのであった。

店内では一人の女性が、置かれている家具をひとつひとつ丁寧に磨いている。肩程までの黒髪に緩いパーマをかけた、素朴で気取らないその女性は、私が気に入った雑貨を持ってくると、それを新聞紙に包み、手提げ袋に入れてくれた。

「素敵な街ですね。昔の街並みが残っているし。」

「ええ、休日は観光客の方で賑やかですけど、こういう平日はとても穏やかでゆっくり過ごせますし。」

「でも、この辺りに住んでいる人にとっては、最早当たり前になってしまうものなんでしょうかね。」

私は彼女に率直な感想を述べると共に、少しひねくれた質問を投げかけた。

「案外そうでもないですよ。ここに住む人たちはこういう雰囲気が好きな人が多いですし。やっぱりこの辺りは良いですよ。静かで。」

また来てくださいねーー。手提げ袋を受け取りながら彼女に笑顔で送られた後、私は緩やかに心のわだかまりが解けていくのを感じた。

ここに暮らす人たちは、鎌倉の街で、いつまでも旅をするように暮らし、その魅力に気づくことができるのだ。

横浜へと帰る鈍行に乗ると、日常が急激に迫り来んでくる。会社の携帯電話にはひっきりなしにメールの通知が来る。背広姿の男性が次々に乗り込んでくる。

明日からまた、日常が始まる。

しかし私はある種の晴れ晴れとした気持ちを保つことが出来た。

帰りの距離の短さは、気軽に足を運べることの裏返しだ。

鎌倉に住む人が、旅をするように暮らすのと同じく、私は暮らすように旅をしよう。

都会の慌ただしい街並みに、私は再び帰っていった。