ミモザの人

私は思った。絵画が好きな美術館学芸員は幸せなのだろうかと。大好きな絵に囲まれ、著名な画家の描いた作品を間近で感じられる事に、始めはとてつもない充実感を覚えるだろう。展覧会を観終わるたびに、ずっとこの空間に居られたら、それを生業として生活の糧にすることが出来たなら、どれだけ素晴らしいことなのだろかと感じていたし、それは間違いなく自分にとっての幸福だと確信しているに違いない。実際に経験するまでは。
しかしどうだろう。その素晴らしい絵画を手にする事は一切できず、触れることすら許されないのだ。これだけ近くに居ながら手に入れる事はできないという焦燥感に苛まれるのではないか。むしろ近くにあるからこそ、その感情は強まる一方だ。
高級時計の販売員や、カーディーラーも同じく、いわゆる成功者でなければ届かない領域に、いつかは自分も、と日々願いながら、それを実際に手に入れるのは至難の業なのだ。

東京の街は、そんな感情が渦巻く哀しき街だ。

始めは誰もが何かを手に入れたい、何かを成し遂げたいという思いで足を踏み入れたは良いが、その欲求と現実の乖離に絶望する。その想いを諦められなくしているのは、比較的近くにいる、一見それを叶えた様に見える存在だ。
中心地に少し足を運べば、輸入車に乗り、高級時計を身につけながら、容姿端麗な美女を引き連れバーでワインを楽しむ上流階級の姿を眺めることが出来てしまう。
いつかは自分も、そんな事は幻想だと分かりながら、心の深層ではそんな気持ちが沈んでいる。その幻想と現実の乖離が人々の心にゆとりを喪失させ、疲弊させてしまうのだ。
そうして心と体を壊していく人が、東京には大勢いる。私もまた、その一人というわけだ。

私は今、大学入学のころから数えて7年間住み続けた東京を離れ、新潟の離島である佐渡ヶ島で、これを書いている。
この物語は療養のために訪れた佐渡ヶ島での生活、そして現在に至るまでを書き綴ったものだ。
退屈な部分も多い、むしろ面白いことなど殆どないかもしれないが、そこは賢き読者であるあなた自身で見つけて頂けたなら幸いである。

 

 

五月の終わり。短すぎる春から、夏が顔を覗かせる頃、私は自宅で倒れた。その事に最初に気づいたのは、編集者だった。原稿を督促する為に電話をしても繋がらなかったからだ。驚くのは、最初に電話してから私の部屋を訪れるまで、まる一日経過しているという事である。つまり私は失神した状態で長らく放置されていたわけだ。作家が編集者の連絡を無視することなぞは、往々にしてあり得る事なのだそうだから、担当している作家から連絡が帰ってこなくとも、編集者は気にも留めない。それでも私が編集者からの連絡には必ずその日中に折り返すような性格だったのと、数日前から体調を崩していることを知っていて、何となく次の日にも電話をかけ、それでも音沙汰がなかったから部屋を訪れたのだそうだ。そうしたら鍵が開いていて、それで知ったのだと。考えてみたら偶然と幸運が重ならなければ、私はとっくに死んでいた事になる。
仮に部屋を訪れてインターホンに出なかったとしても、出掛けていることなんてよくあることだし、郵便受けなんて今時入っているものとしたら不在票かもしくは企業広告なのだから、元気でいながら何日も放置することだってあるだろう。結果的にはその編集者の「何となく」が私の命を救った事になる。
病院の診断結果は、原因不明。おそらく心因性のものであろう、との事。医者も乱暴なものだ。私はその時、現代医学の限界を痛感した。
数日して私の身体はすっかり元どおりになり、退院したのであるが、「おそらく心因性」という診断結果の為、私は仕事に復帰することができなかった。ある大作家が読者からの「素晴らしい作品を書き続ける為に必要なことは何か」との問いに、「健康でいることです」と言ってファンを大いに落胆させていた(何なら毎日決まった時間に起き、一日1時間マラソンをしているなんて付け足していた時の読者の顔の青ざめようは忘れられない。読者は作家というものが退廃的であることを望むからだ)が、今はその作家がまさしく正しかったと思わざるを得ない。
そのことを知った母が勧めてくれたのが佐渡ヶ島であった。空気も綺麗で長閑な場所でゆっくり過ごしなさい、と。東京の空気にすっかり辟易していた私にとってはまさにうってつけの場所だった。それに住んだことのない土地での経験は、必ず新作のいい材料になる。川端康成も若い頃に過ごした田舎の経験をよく題材にしていたし、第一この物語自体がその佐渡で起こった私自身の経験譚なわけであるから、現金な性格をどうかお許し願いたい。つまり健常な体力を奪われながら、自身に宿る作家精神までは奪われなかったというわけである。母には二つ返事で佐渡行きを了解した。
出版社へは編集者への電話一本の連絡で済んだ。
「そうですか。ゆっくりお休みください。」
そう言って編集者は忙しそうに電話を切った。出版不況であるこの時代、読者の数は年々減る一方で、誰しもが当たり前に発信できるようになり、作家の数はますます増えている。どんな人種にも機会がある時代なのだ。それは人類文化史上、素晴らしい時代に突入する一方で、無名の作家にとっては常に競争を強いられる時代でもある。
つまり私の代替など星の数ほどいるという訳だ。何もかも機械によって自動で仕事が出来るようなこの時代に、自分自身に価値を持つため、創造性のある仕事を選んだつもりであったが、出版社にとって私はとても価値のある人材ではなかったようだ。
そんな絶望感も、一度東京を離れて仕舞えばたいした感情ではない。
支度は非常に簡単だった。服装で言えば、私は元々服に無頓着だから、下着と白いスタンドカラーシャツ、ネイビーのデニムを何組か入れれば、たいていは問題なく生活できるだろう。
新幹線を乗り継いで新潟に行き、港から佐渡汽船へ乗り込んだ。
乗客は数人の観光客と、おそらく実家に帰るのであろう子連れの家族が数組。二等の座敷席に寝転び、船に揺られた。
佐渡ヶ島は遥か昔、罪を犯した者が労働者として住む事になる流刑地だったことを思い出した。
現地の人にその話には触れないでおこうー。何となくそんなことを考えた。
甲板に出ると、ウミネコたちが三羽、必死になって船と並走している。本当に猫のように鳴くのだなと感心しながら、ふとウミネコたちが何のために生きるのかを考えて、そんな事を考えるのは人間だけだと思った。

「何の為に生きるか考えるのは、人類が賢くなり過ぎた事による害だ。本来その考えに答えなんかない。全ての生物は元々生きるために生きるんだから。人間だって昔はそうだった。縄文時代とか。動物を捕まえて、その日の飯に困らなければそれが幸せだった。生きていることと幸せがイコールじゃないのは、動物としてはある種機能不全だ。」
大学時代、友人がそんなことを話していたが、本当にそう思う。高貴なる死、なんてのは、身勝手に文明を発達させた人間に対する神の罰なのかもしれない。

佐渡の港に着くと、もうすっかり夜になっていた。
汽船が大きな音を立て、港に橋をかける。そこに降り立つ者たちは皆罪人で、もう二度と故郷に帰る事は許されない、そんな事を少しだけ考えた。
そんな妄想をかき消すように、港では何人かの人が、降り立つ人を笑顔で出迎えていた。おそらく実家に帰ってきた人を迎えているのだろう。皆幸せな表情に満ち溢れていた。海風が吹くと、少し寒気を感じる。新潟と聞いて想像はしていたが、夜になるとまだまだ寒いようだ。
タクシーに乗り、母から伝えられた住所を示す。海沿いの道路から一本入ると、商店街のような通りに出たが、既に店は閉まっていてひっそりとしている。東京ならまだまだ店の照明も光り輝いて賑やかな頃だが、同じ国とは思えない程の静けさだ。さらに驚いたのはその商店街を抜けると、いつの間にかあたりを山々に囲まれていた事だ。海から数分車を走らせた先に、山があるのだ。そこから更に車を走らせると、住宅がちらほらと見える田園地帯に入った。そこに一つ、大きな本堂のある寺が見えた。おそらくここが叔父の住む家であろう。
少し手前でタクシーを降りると、冷んやりと澄んだ空気を感じた。海辺とはまた違う、乾いていて澄み切った空気だ。こういう空気を感じると、都会は常に何かの臭いがしている事に気付く。車の排気、飲食店の換気扇から流れる食品の臭い、そして人が出す様々な臭気。そうした臭いが常に鼻から脳を刺激し、脳が欲望を喚起する。人は欲望が自身の内側から沸き起こる感情だと錯覚しているが、実際には見たもの、聞いた事、嗅いだ臭いなどの刺激に対する反射として起こるものなのである。都会では欲望が常に刺激され、それが時に行動力を与え、時に人を破滅させるのだ。
そんな事を特別考えるのは、ここが寺社の前だからなのかもしれない。欲望の空気を纏った自分を罰するように、厳然と構える本堂を眺めた。
庭にたどり着くと、甚平を着た一人の男が地蔵を磨いているのが見えた。歩いてくる私に気付くと、彼は笑顔で振り向いた。
「こんばんは。どうも遠いところから、ようこそいらっしゃいました。」
爽やかな顔立ちで、唇は薄いが目鼻立ちは非常にはっきりしていて、聞いていた年齢よりも全然若く見える。というのも私が考えていた住職とのイメージにギャップがあったからかもしれない。
「お疲れでしょうから、お部屋を簡単に説明したら、早速夕飯にしましょう。」
はっきりとした滑舌とよく通る声色は、さすが経文を唱える職業柄なのだろうか。自分の自信なさげな話し方が恥ずかしくなるほどだ。

玄関に入ると、その中身は予想よりもずっと一般的な家庭だった。
居間と台所兼ダイニング、寝室が二つに、客間が一つ、その客間の奥に書斎がある、といった感じだ。本堂は居間から続く渡り廊下を歩いて別棟になる。

「小さい家で恐縮ですが、客間を自由に使ってください。荷物などもあるでしょう。」
部屋の中をざっと説明した後、客間に腰を下ろしながら住職は話した。
「お母さんの話じゃ、確か作家さんでしたよね?書き物をするなら、書斎を使っても構いません。少し散らかってますけど。」
どごまでも謙遜して丁寧な話し方をする叔父に私は少し困惑しながら、
「ええ、どうも。そんな大層な職業じゃありませんが・・・。」
とまごつきながら答えるしかなかった。
「コーヒーでも淹れましょうか?これから夕飯の支度をしますから、それまでの間。」
「ええ、それではお言葉に甘えて。」
私は何だかそわそわしながらも、ええ、なんて普段使わない相槌を打ってお辞儀をした。
作家と聞くと、何か気の利いた返答や洒落た文句がふと出てくると思われているのではないかと、どぎまぎしてしまう。実際物語の中で出てくる会話が、机の上で何時間も何日もかけて考えて思いついたり、思いついたとしても何度となく書き直したりして出来上がるものなんて事は、本当は一般的な大人なら理解しているのだろうけど、それでも自分が相手の質問になんの変哲も無い、むしろまごついた返答をすると、幻滅されているのではないかと、勝手に落ち込んでしまう。そうやってどんどん萎縮した喋り方になってしまうのだ。
それにしても、急に居候を申し出て、なんの手土産もなく上がり込んだこの厄介者に、客間や書斎を惜しげもなく借り与え、それだけでなく食事も支度しながら、慣れた手つきでコーヒーまで淹れるなんて、どんな人種なんだろう?あるいは母からたっぷりと礼を渡されてるんだろうか?そんな事まで勘ぐってしまうほどの待遇だ。
それに淹れてくれたコーヒーが、また抜群に美味しい。正直、市販のインスタントコーヒーではないことは確かだ。少なくとも豆を焙煎してそれほど日が経っていない、雑味の無さ。ただこの島に、そんな本格的なコーヒー屋があるのだろうか?
そんなことを考えているうちに、台所から温かい出汁の香りが広がってきた。
「お待たせしました。簡単ですが召し上がってください。」
住職が出してくれた食事は、白米、金目鯛の煮付け、豆腐に味噌汁だった。
「煮付けは檀家さんからのお裾分けなんです。僕自身料理は得意じゃないですが、これは旨いですよ。」
今までずっと謙遜していた彼が、少し自信のある声色で話した。その口調はお世辞などではなく、心の籠った話し方であった。
「そういえば、体調はいかがです?もともとお体を崩してここにおいでになったんですよね。いけない、コーヒーなんか刺激のある飲み物を出してしまって。

「いえいえ。体調はすっかり良くなってるんですよ。ただ、少し都会から離れた方がいいと思って・・・。コーヒーですけど、むしろとても美味しかったですよ。近くに贔屓のコーヒー屋でもあるんですか。」
体調の事にはあまり触れられたくなかったのと、ちょうど気になっていた事を口に出して聞いてみた。
「ああ!あれは近くにあるコーヒー屋の豆なんですよ。やっぱり美味しいですか!ああ良かった。僕もここのが大好きなんです。でも、正直な話、この街には比べるものも無いもんですから、単にこの味に慣れてるだけなんじゃないかって思ってたんです。」
心の中までも清い人がいるのなら、彼は本当にその一人なのかもしれない。自分のことについては常に謙遜しつつ、相手が与えてくれるものに対して感謝の気持ちを持って、自信を持って賞賛するような人物。
「私も生粋のコーヒー好きというのでは無いですけれど、あんなに美味しいのは東京でもなかなか飲めないと思いますよ。」
「そうでしたか!そりゃあすごい。ここからそう遠くない場所にありますよ。この後街の案内図を渡しますから、近いうちに是非行ってみてください。」
食事を終えると、私は早速書斎に入った。やることも無いし、ここでの生活を日記につけることにした。
「布団を用意しておきましたから、適当にあつらえて使ってください。僕はそろそろ寝ます。」

「どうも何から何まで。おやすみなさい。」
どうやら私は人には恵まれているようだ。子供の頃から世話になっているならともかく、何の関わりもなかった人間にここまで親身になる叔父などそうは居ないだろう。
布団に入り、夜の静寂に包まれながら考えた。
いい静養になりそうだ。居心地が良くなりすぎて戻りたくなくなってしまわなければいいが。

 

 

翌朝、目を覚ますと住職は朝食の支度をしていた。
「おはようございます。起こしてしまいましたか?簡単ですけど、お好きなタイミングで食べてください。私は午前中檀家さんを回ってきますので、お出かけになるなら庭にある自転車を使ってください。田舎なのであまり便利では無いですが、スーパー、コンビニ、コーヒー屋に行くくらいなら十分だと思います。」
「むしろ朝食まで用意していただいて、どうもすみません。それじゃ自転車をお借りして、コーヒー屋にちょっと行ってみようかと思います。」
「そうでしたか、それではお気をつけて。」
しっかりとした袈裟に着替えを済ませて、彼は玄関を出た。
用意されていた朝食は、クロワッサンにベーコンとスクランブルエッグ。オレンジジュースが入った小瓶と、サーバーに半分くらいのコーヒーが入っている。
カリフォルニアの風が流れてきそうな献立に何となく違和感を覚えながら、私はマグカップにコーヒーを注いだ。
それにしても、本当に静かだ。この家以外この島には誰も住んでいないのではと思うほど。聞こえてくるのは、小さい鳥の囀り位である。
朝食の後、私はコーヒー屋を目指した。日が登ってくると、初夏らしい陽気を感じる。
坂道の多いひらけた道を自転車で走らせながら、そのコーヒー屋がどんな店なのか、どんな人がやっているのか、思いを馳せた。
あれだけ洗練されたコーヒーを出すくらいだから、ブルックリンにありそうな洋風な店内に、髭を生やしてエプロンを着た青年がやっているのだろうか。はたまた島のカフェらしく古民家を改装した店内に、老夫婦が営んでいるようなところなのだろうか。
着いてみると、その予想はどちらも外れていたことに気づいた。
店の佇まいは、掘建て小屋の様な、素朴な建物だった。
扉を開けると、カウンターに5席と、二人用のテーブルが2つの小さな店内で、店主と思われる男がカウンターの奥でコーヒーを淹れている姿があった。
「いらっしゃい。」
低く野太い声の男は、グレーとネイビーのボーダーシャツにデニムというラフな格好で、いわゆるコーヒー屋のマスターのイメージとはなかなか離れた出で立ちである。
「お一人でしたらカウンターにどうぞ。」
目を合わせることなくカウンターに水とメニューを置く姿は、本当は接客などしたくないのではないかと思わせるほどの待遇だ。
皺が入った小さな紙に片面だけ書かれたメニューはいたってシンプルで、本日のコーヒー、オレ、りんごジュースのみ。迷う必要もなく本日のコーヒーを注文すると、はいよ、とだけ言ってグラインダーに豆を放り込んだ。
本当にここが今朝飲んだコーヒーを出しているのだろうか。
そんな疑問は次の瞬間すぐに崩れた。

「どうぞ。」
素っ気なく出されたカップからは、豊潤な果実の香りが立ち込めていた。ひと口飲むと、苦味のない、まさに朝飲んだのと同じ味がするのである。
旨いコーヒーというのは、ある時には罪悪とさえ思う。コーヒーとは本来、その苦味をもって少しずつ口にする飲み物だ。会話、仕事、創作の間を繋ぎ、その空間の片隅で人々の生活のひと息を手助けする役割を持つ。
ところが旨いコーヒーは、そうはいかない。その驚きをもってして主役へと躍り出てしまうのだ。そうなると、それを前にした者はただ、この飲み物を飲み続けたいという衝動に駆られ、あっという間に飲み干してしまうのだ。
そんな訳で私はこのコーヒーを無我夢中で飲み続けた。
「なんだ。急いでるのかい。」
店主は少し困惑した表情で問いかけた。

「いや、あまりに美味しいものですから・・・。」
「そうかい。そりゃそうだ。俺が入れてるんだからな。」
少し笑ったが、あくまで感情は動いていない、というような顔をしながら、湯を沸かし始めた。
「もういっぱい飲んでくか?」
「あ、ええ、ぜひ。お代は?」
「ん?ああ、無いよ。そんなもんは。」
「え?」

「ああ、ああ、違うぞ。コーヒー好きなお客さまへのサービスとかじゃない。うちはいつでもそうなんだ。」
「誰にでも、いつでもですか?」
「そうだよ。タイムサービスなんかやる訳ないだろ。」
「でもこれ、確実に高級品でしょう。そこらのカフェやレストランで出すものとは別格だ。」
「そりゃそうだ。俺が旨いと認めるもん以外は仕入れない。」
「でもそしたら、採算が合わなくなってしまいませんか?」
「あんた、東京から来たんだろ。都会から来た奴は金の話ばっかりだな。こんな島で商売やってる時点で金儲けなんか考えてねえさ。金が大好きな奴はとっくに東京で金融マンにでもなってるよ。それだけの話だろうが。」
唖然としてしまった。確かに、あまりの驚きに失礼なことを聞いてしまったとも思った。しかし、本当に大丈夫なんだろうか。こんなことを思っている間にも「おかわり。」の声のもと、店主はまた無愛想に返事をしながらコーヒーを注いでいる。ここの住人はとんでもない幸福を手に入れている。少なくともコーヒー好きにとっては。こんな最上級な飲み物が飲み放題だなんて。そもそも知っているのだろうか。ここで出すものが他と比べて段違いに旨いことを。もし知らないとしたら、東京に出てまず驚くだろう。コーヒーの味に。
「焙煎もご自身で?」

「ああ、裏の小屋でな。

「お店はずっとここで?」
「いや、二年前からだ。定食屋をやってた親父がやめるっていうから中身をそっくり作り替えてやったのさ。」

「でも、ずっとお店を開きたかったんですね。」

「消去法だよ。人に従えない奴は会社を建てるか、店をやるか、芸術家になるしかないだろ。」
「確かに、そうかもしれません。」
彼の言うことは、本当の事だ。
私も元は独立した存在になりたかった。でも気付いたら、依頼された脚本やら、記事やら、そんなものばかりに忙殺されていた。必要とされている事はありがたい事だと、自分を納得させていた。食いっぱぐれている作家が数多くいる中で、あちらから依頼を貰える事なんてなかなかない事だと。
しかし、好きでもない、興味のない事を書かされて生活することと、金にはならなくても好きな事を書いているのと、どちらがより幸福なのか、そこでもまた、自分の幸福について考えてしまう自分がいた。今目の前にいる彼は、自分のしたい事をしているのだ。愛想が悪くても、ここに来れば旨いコーヒーが飲めて、それで人を幸せにしているのだ。そう考えると自分が情けなくなり、二杯目に出されたものは、不思議と苦く感じられた。
「お前はどれでもないだろうが。」

「え、あ、すみません。」

「適当な相槌ほど命取りになるもんはないぜ。」
私もその一人です。
とは言い出せなかった。
作家だと名乗ることが恥ずかしいのもあったが、今の自分が何者なのか、それ自体疑わしくなっていたために、おかしな返事しか出てこなかった。
それにしても、本当にどんな客にもこんな言い草なんだろうか。曲がりなりにも初対面の客に、普通の店なら客から激昂されてもおかしくないだろう。
「なんだ、こっちのは好みじゃなかったか。」
店主は初めて少し不安そうな顔をして私に聞いた。
「さっきと違う豆なんですか。」
「そうだよ、あんたなら分かるだろ。さっきのはエチオピア、こっちはブラジル。」
そう言ってカウンターに二つの瓶を置いた。焙煎された豆の違いは、その濃淡から味が想像できる程のコントラストだった。苦味は自分の感情の表れなどでなく、明確な違いを持っていたのだった。

「そうですね、私は一杯目の方が好きかもしれません。もちろんこっちだって本当に美味しいんですけど。」
「ふん。つくづく都会の奴なんだな。ここに来る客はみんなブラジル好きだ。」
また来いよ、今度面白い豆が手に入るから、試しに色々焼いてみるんだ。お前、きっと好きだぜ。
店を出る時店主はそう言って私を送り出した。客は私一人になっていた。

夕食を済ませると、私はしばらく書斎に籠った。
この島に来るまでに考えた事、来てから起きた事、それらを書き留める。休職中の身だが、書くこと自体をやめて仕舞えば、自分が自分でいられなくなってしまうような、一種の強迫観念のようなものに駆られていた。書く事で、自分自身が救われるような気がした。作家の喜びは、書くという行為そのものにあり、書くことで心の重荷を降ろすことにある。これはサマセットモームの言葉だが、作家の心を見事に代弁した台詞だろう。
頭の中にあるものを、そのままにしておく事の恐怖、不安、焦り。それが大きければ大きいほど、文字にした時の開放感も大きい。それが他人に共感されれば尚更。モームはこう続ける。
他には、何も期待してはいけない。賞賛も批判も、成功も不成功も気にしてはいけないー。
ここが偉大な作家と神経衰弱な男との決定的な差だ。

 

 

今日は、寺で昼食を済ませるとすぐにあのコーヒー屋に向かった。初めて行って以来、もう何度も足を運んでいる。何せ部屋にいても退屈だし、せっかくなら主人とコーヒーの話をしていたい。本当にこんな事をしていていいのかと思うが、平常時の私は、無駄な時間など無い、どんな事でも何かにつながる可能性はあるという、ある種楽観主義的、希望的観測の持ち主であった。
しかし今日は、家でない場所で何かを書きたかった。だからいつものカウンターではなく、テーブル席に座った。
「なんだ、今日はこっちじゃないのか。」
「お客さんが来たら譲りますから。ちょっと仕事で。」
「熱心な奴だ。電波が届くかね。」
「いつもそこのパソコンで豆を買ってるじゃないですか。ブラジルまで届くなら、東京は徒歩圏内です。」
「皮肉屋だな。」
「あなたに言われちゃ世も末です。」
ふんっ。店主はいつもの様に鼻で笑いながら、黙って豆を挽き始めた。
出されたコーヒーを半分程飲んだところで、一人の女性が店に入って来た。
ボーダーのチュニックにレギンスという、いわゆる田舎の女性という格好をしているが、後ろに結われた髪から覗く耳には銀のかすみ草を模したピアスが揺れ、どことなく洗練された印象を与えた。
「今日は手前で頼むよ。」
「はいはい。カフェオレを頂戴。」
おそらく常連客なのだろう。店主は頼まれる前からミルクを冷蔵庫から出していた。女性は私が来た時にもいつもテーブルに座っていた。ちょうど私が今座っている席だ。
それにしても、こういう状況になると、非常に気まずい。私は今、店の奥側の、壁側の椅子に座っている。一方彼女は、店の入り口側の、それまた壁側の椅子に座っている。そうすると、顔を上げた時、必然的に顔を付き合わせる形になる。もちろん、パソコンを前にしているし、彼女は読書をしているのだから、顔を合わせる事はそう無いのだが、それでもカップに口をつけて戻す時、どうしても一瞬前を向くことになる。すると不思議と相手もカップを机に戻そうとしていて、目が合ってしまう。かと言って変に席を変えたりしても、相手をまるで不快に思っている事を表明する様でばつが悪い。ひょっとして普段座っている席を陣取られて、こちらに立ち退いて欲しいのだろうか。お前はいつもカウンターだろうとー。
考えすぎている事は百も承知で店主に声をかけようとすると、本を読んでいた彼女がふと立ち上がった。

ついに立ち退きを要求されるのだろうか。流石にシラを切るのも限界で、まじまじと目を合わせる。大きく見開いた二重瞼に、凛とした瞳。目と眉の間が非常に狭いせいか、重い前髪を眉上で少し流しているせいなのか、非常に強い眼力を感じる。いや、単純に不快な感情をぶつけているのだろうか。
色々と言い訳を考えていた。しかし彼女の口から発せられたのは想像もしていなかった言葉だった。
「ひょっとして、野草の方ですか?」
「はい?」
「作家さんですよね?どうしてこんなところに?」
しばらく動揺して言葉が出なかった。野草は私の処女作だ。しかし、何故か私の方もどうしてこんなところに?と聞きたくなってしまって、それではおうむ返しで相手を挑発する様で、それはこんな鋭い眼差しで見つめられている状態で返せるわけもなくただ、
「は、はあ、そうです。野草は私の書いた本です。」
などと、小学校の英語教室の単語の和訳の様な稚拙な返答しか返すことができなかった。
「やっぱり!すごい!こんなところで作家に出会えるなんて!」
いつか名を馳せる事を夢見ていた筈なのに、その準備を全くしていなかったことに気づいた。見ず知らずの土地で読者に声をかけられたとき、どんな対応をするべきか、全く頭になかった。心の中でそんな事は起こり得ないという、負け犬根性が働いてしまっていたのだ。偶然著者に出会った読者より著者自身が動揺している。そんな場面は間抜けな喜劇でしか無い。
「もし良かったら、座っても良いですか?」
そう言いながら彼女は私のテーブルにカップを置いた。
「マスター!この人作家よ!友達なの?早く言ってよ!あとおかわり!二杯分ね!」
店主は困惑とも、苛立ちともつかない表情で、二杯分の豆をドリッパーにセットした。「

「お前作家だったのか。隠しやがって。あとお前さんもこんなところ、こんなところって言うんじゃねえ。作家と女が出会うのは喫茶店ってのが定石だろうが。」
そう言いながら彼は少し粗っぽい手付きでカップにコーヒーを注いでいる。彼のまた少し違う一面を見た気がした。
「なんだ、案外詩人じゃないか。」
「うるせえ!」
私は少しリラックスして彼女に微笑みかけた。
「全員では無いですが、作家は喋ると案外つまらないものですよ。あそこに書いてあるものは、それはもう何時間何日とかけて考えられた言葉たちですから。頭の回転が悪くて、咄嗟のユーモアに弱いんです。」
「それが私にとっては貴重です!私たちは想像することしか出来ないから。」
改めて見ると、彼女はとても純粋な目をしていた。初めて綿あめを見た時の子どもの様に輝いていた。最初に感じた威圧的な目線は、見る私が創り出した虚像だったのかもしれない。
「でも、大袈裟なしに、私も読者の方とこうやってお会いするのは初めてで、うまく答えられる自信がありません。」
「そうなの?そうしたら私は本当に幸運だわ。私が作家先生にとって顔の見える第一読者ね。」
はじめはその凛とした表情に自分と同じ年か少し上かとも思ったが、天真爛漫な今の表情は、ひょっとしたらまだ二十歳かそこらなのかもしれない。もともと女性の年齢を言い当てるのは苦手だが、得てして年齢の読めない女性だった。

「本当にありきたりな質問をしても良い?あなたがこの先大先生になったら、会った人、会った人に聞かれることになるだろうから、その練習として。」
そんな事を事前に宣言されてしまうと、こちらも身構えてしまう。しかも大先生などと言われて、こちらの身の上を知られては、さぞ失望するだろうと、少し儚い気持ちになった。
「どうぞ。そんな時がいつ来るか、生きているうちなら良いんだけど。」
彼女は大きく瞬きをして言った。
「野草の女性は、あなたの初恋の相手なの?」
その質問に、私の方が失望した。野暮だ。野暮ったい、田舎の少女的思想。何を聞かれるかと思えば、意味の無い、空洞の様な質問。
「それについては、私も本当にありきたりな回答をするよ。」
一呼吸置いて答えた。
「その判断は読者に託しますよ。それに、著者の顔が見えてしまう作品自体駄作だ。私の野草は駄作かもしれないですね。」
「何それ。シェイクスピアは自分が書いた脚本に自分が主演してたのに。それも駄作ってわけ?」
「それとこれとは訳が違うでしょう。顔が見えるっていうのはあくまで比喩ですよ。」
「それじゃあヘミングウェイはどうなの?主人公はヘミングウェイ自身だって、全員が知ってるわ。現実でない事は書かないって。」
「私はヘミングウェイじゃないですからね。戦争に出たり、アフリカで狩をしたりしない。」
「そんなのらりくらり言うならこの際言うけど、野草ってタイトルは無いわ。可憐な運命の女性を、野の草だなんて、女心を分かってない。」
「じゃあなんだい。白い百合、赤い薔薇とでも付ければ良かったですかね。」
「そうじゃなくて!もっとあるはずでしょう?慎ましやかな美しさのある花の名前が!」
「ほんと、想像通りね。作家って捻くれ者で、人とまともに会話する気なんて無いのよ。常に頭の中にこうきたらこう、こうきたらこうって事しか考えてない。」
「それが仕事ですからね。」
「もう昼休みも終わりだわ、マスター、お金ここに置いておくから。」
彼女は乱暴にテーブルに代金を置くと、どたどたと足音を鳴らして店を出た。
店主と私は決まりが悪そうに目を合わせた。
「何だか、申し訳ない。」
「あの子、気分屋なんだよ。ちょっとした事でああなっちまう。おとなしくしてりゃ美人なのに。」
「職場が近くなんですか。」
「ああ、向かいの保育園だよ。そんで昼休みになるとここに来るんだ。テーブルでひたすら本を読んでる。知的な文学少女かと思えば、あんな感じさ。」
私は動揺していた。彼女の言っている事は、全て正しいと思った。あまりに本質的な言葉は、時に反抗を生む。実際、野草という題に関して私も納得がいっていなかった。ただ、花に関して無知識だったが故に、適当で無粋な花の名前を付ける訳にもいかず、野草という名にしたのだった。
子どもだったのはむしろ私の方だったのである。

次の日、私はまたコーヒー屋に足を運んだ。彼女がいたら、謝罪しなければ。店に入ると、彼女は奥のテーブルで本を読んでいた。私は迷わず彼女のところへ行き、昨日のお詫びをした。
「両津港にある蕎麦屋知ってる?」
「え?」
「二作目はほんと、歴史書みたいね。」
「はい?」
終始、白痴のような回答しかできなかった。
「マスター、今日はおかわりいらない。お金はここに置いとくわ。」
「お?随分早いな。」
「子どもが怪我したみたい。様子を見てくる。」
彼女はまた、どたどたと足音を鳴らして店を出た。

「まあ飲めや。うちに来たからにはな。」
そう言うと店主はカウンターにカップを置いた。私は椅子に腰掛け、頭の中を整理しなければならなかった。
蕎麦屋、二作目、歴史書。
「あの子、お前の本読んでたぜ。」
やっぱりそう言うことか。野草は編集者から、ロマンスの要素が強過ぎて現実味が無いと言われていた。だから、二作目は徹底したリアリズムに基づいて構想を練った。
編集者とも入念な打ち合わせを行い、校正につぐ校正の末、ようやく出版に至ったのだ。結果、周りの作家や評論家からは高い支持が得られたものの、部数は伸びなかった。
作品の出来と人気は比例しない。周りからは励まされたが、この一件で私はすっかり自信を失ってしまったし、何より他人の期待に応え続けた結果に、他人は責任を取ってくれないのだと気づいた。そんなことは当然の事なのに、人の意見を聞いて内容を変えていくうちに、思考が鈍ってしまったのである。真理へと近づいているように見えて、実際は結果である読者からどんどん離れてしまっていた。
歴史書、と言うのはまさに読者の声であった。相変わらず辛辣な言い方だと思いつつ、ここでも本質的な意見を述べられ、それを聞いて白痴でしかいられないという。なんと無様な男!
とにかく、やられてばかりでは困る。私は旨いコーヒーを口にしながら、店主に尋ねた。
「彼女の仕事終わりは分かりますか。」

聞いた時間よりも早く、私は港に向かった。
港にある蕎麦屋なら、一つしかないとも言われたが、確かにすぐに見つけることができた。
店に入ると、何と、彼女はもう席に着いていた。店主が適当な事を言ったのだろうか。既にしてやられたような気持だ。
「あら。本当に来たのね。」
「そりゃ、来いと言われたもんですから。」
「あたしは別に来いとなんて言ってないわよ。ただ知ってるかどうか聞いただけ。」
「とんだ意地悪ですねあなたは。」
「あと、その敬語をおやめないよ。年上なんだから。」
「はあ。年上だと思うなら、指図するのもおかしな話じゃないか。」
「相手への思いやりよ。」
島にいる女性というのは皆こうなのか。絶対に違う。むしろ逆なはずだ。昨日初めて会ったはずなのに、距離感がつかめない。私は正直困惑しきっていた。
「そういえば、二作目を読んでくれたのかい。」
「ええ、私は一作目の方が好きだわ。梶井基次郎みたいな、詩的な雰囲気が良かったのに。」
「それが読者様の代表意見みたいだね。あれは少し、考えすぎたよ。」
「うん。また、檸檬みたいな短編を書いてよ。」
正直、焦っていた。私は梶井基次郎も檸檬も、その当時知らなかったのである。曲がりなりにも作家である以上、無知を晒すのが怖かった。
「ちなみに、ここに居たこともやっぱりネタにしちゃうわけ?」
「いや、どうだろう。一応書き留めてはいるけど。」
「紀行文にしちゃえば良いのよ。絶対に面白いと思うわ。」
「どうかな。あまりに平凡なモチーフじゃ。」

「井伏鱒二みたいなものよ。出来事としてなんでもない事でも、まだ踏んだことのない土地だからこそ感じる新鮮さとかがあるでしょう?そういうのを書いたらいいのよ。」

「井伏鱒二って、山椒魚のだよね?」
「そうだけど、彼の魅力は山椒魚だけじゃないでしょ。まさか、読んだことないの?」
「まだ。」
「じゃ、森鴎外は?」
「うん。」
「川端。」
「参った!降参だよ。」
「何、あんた全然小説読んでないじゃない!モグリじゃないの?」
「モグリ!作家に免許も無免許もあるもんか。」
「あるわよ!人生免許を持ってるか持ってないかで、人からどんな風に見られるか、全然違うんだから。」「君はまた野暮なことを言うんだな。そんなつまらない事を言われたくないからこの仕事をしてるのに。」
「そう思うなら『伊豆の踊り子』位読んでから言いなさい。」
蕎麦つゆをグッと飲み干して、彼女は言い放った。
「はい。今日はご馳走様。明日も仕事だから帰るわ。」
「ああ、そうかい?暗いから送っていくよ。」

「佐渡にだってタクシー位あるわよ。おやすみなさい。」
大きな足音を立てて店を出ると、彼女は颯爽とタクシーを拾って夜の闇に消えていった。
気付けばいつもこの構図だ。彼女の後ろ姿を、気持ちの整理が付かぬまま眺めている。
「宿題が多くなったな。」
声になるかならないか程の声で呟いた。席を立とうとすると、机に綺麗に畳まれた千円札が置かれていることに気づいた。
私は一層気が滅入った。借りすら返させてもらえないとは。やはりこの手の女性は苦手だ。
とぼとぼと店を出ると、外は真っ暗になっていた。そして、タクシーの姿は見えなかった。彼女の言葉が反芻する。完全な敗北宣言。

 

 

「昨晩はだいぶ遅かったみたいですが、大丈夫でしたか?」
朝食を取りながら、住職は心配という二文字を顔に浮かべた。
「ええまあ。コーヒー屋で知り合った人に、小説のアドバイスを貰っていて。結構に盛り上がってしまいまして。」
「へえ。気が合う人がいたもんですね。それは良かった。」
住職の安心した表情を変えたくないがために口には出さないが、はっきりと言いたい。気は、合わない。彼女とはまだ数回話しただけだが、それだけは間違いない。

食事を済ませた後、軒先に出て煙草を吸っていると、住職が庭で小さな地蔵を洗っていた。そういえば、初めに会った時も、ここで地蔵を洗っていた。
「地蔵ってのは洗うものなんですか。」
「どんなものでも、手入れをしなかったら汚れる一方です。きっと真っ黒になりますよ。それにしても。」
住職は手を止めることなく続けた。
「療養に来て煙草をふかしてちゃ、良くなるものも良くなりませんよ。」
「そりゃ分かってますけどね。夏目漱石も太宰治も、当然吸ってましたから。作家には治外法権と言うことで恩赦頂けませんか。」
こんな話を持ち出すのも、今や恥ずかしいを通り越して阿呆らしい。
「そりゃそうかもしれませんけど、太宰は肺結核でしょう?自殺せずとも病気で死んだって聞きましたよ。」
「血を吐くようになったら、自伝を書いて愛人を作って川に飛び込みます。」
私はばつが悪そうに火を消しながら、どうしても知りたいことがあったのをふと思い出した。

「それより、本屋は近くにありますかね。」

 

 

しばらくは、買った本を寺で読み耽った。住職は、外出しなくなった私を少し心配したが、名作に触れることで自らの創作意欲が戻ってくるのを感じられた。
驚くのは、主題や脚本の普遍性である。主人公はあくまで身近なものに触れ、経験して、普遍的な感情を沸き起こさせる。しかし、その文体やリズムによって、読者を作家の世界へ引き込むのだ。
ふと、彼女から着信があった。蕎麦屋で連絡先を交換したものの、実際に連絡が来るのはこれが初めてだった。
「もしもし。」
「今日、暇じゃない?せっかくだから観光案内してあげるわ。」
「急だな。平気だけど、少し準備して良いかな。」
「じゃあ、午後二時にあのコーヒー屋の前にいて。」
よくよく考えると、一つも意味がわからない。何のせっかくなのだろうか。今日は平日だし、仕事はないのだろうか。彼女がどんな計略を考えているのか、疑いの余地は多くあったが、行くと言った以上、私は言われた通りコーヒー屋に向かった。
時間になると、1台の軽自動車が走ってきた。見ると彼女が運転している。
「お待たせ!乗って!」
「何だか、すみませんね。」
「何もすまなくないわよ。佐渡に来たんだから、朱鷺が見たいでしょ。」

「まあ、確かに。でも、どうして僕を?」
「だってせっかく偶然会ったんだから。どうせ、何日かしか居ないんでしょう。」
そう言われて、私は言えなかった。療養で来ているのでいつ戻るかわからない、などと。
「まあ、そうだね。いずれは東京に戻るよ。」
「先生ってのは自由なのね。でも、仕事やら何をするのだって東京の方が便利でしょうに。」
「東京は、埃と欲望の街だよ。」
言った後、反省した。
「そう。よく分からないけど、確かにここの方が埃は少ないかもね。」
車が公園に着いた。
「さあ、ついたわよ。」
駐車場から入り口に向かったが、人はほとんどいなかった。
「こりゃ貸切ね。」
何と返事をしたら良いか分からず、私は適当にうなづいた。
園内は静まっていた。私たちの他には数組の老夫婦と、一組の外国人観光客のみ。
「普段からよく来るの?」
「まさか。30年ぶりね。」
「君、いくつなんだ。」
「レディに聞くことじゃないわよ。」「

「今のは誘導尋問だよ・・・。」
肝心の朱鷺は、一番奥の保護区域にいた。警戒心が非常に強く、遠くから設置された双眼鏡で見るしかない。
覗くと、美しい白い羽に、染めたかのような朱色が輝いている。自然の生き物で、あそこまで鮮やかなコントラストが生まれるのだろうかと感心した。
その孤独な目は、自らが保護対象であると自覚している様な、諦めと気高さを併せ持った感情を思わせた。
自分たちが減らしてきた生き物を保護して、地球の秩序を守った気になるのは、結局のところ業でしかないのだろうか。
療養中の身だ。あまり壮大な事を考えるのは止めることにした。

朱鷺の公園を出ると、彼女は再び車を走らせた。
「次はどこへ?」
「あなたに一番足りないものを見せてあげるわ。」
「強い精神かな。」
「どういうこと?」
しまった。口を滑らせたことを後悔した。私はそこで、身の上を白状することにした。
「いや、実は療養で来ているんだよ。だから、正確にいうと今は仕事もしていない。」
「そうなの。でも、太宰は療養中の話がベストセラーになってたわ。」
「前向きだな。君は。」
「ちなみに、読んだことある?」
「パンドラの匣は僕の聖書だ。それにあれは、療養していた友人の日記をもとに書いた作品だよ。太宰自体は元気な時に書いたものさ。」

「あら、失礼。」
「それに、君から言われた本だって大体読んだよ。確かに、檸檬は僕の教科書になるかもしれない。」
「え?梶井も読んでなかったの?」
「あ・・・。」
「流石に無免許執筆で取り締まりよ。」
二人は笑った。

彼女が次に車を停めたのは、カンゾウの花畑だった。
一面に広がる桃色の花を背にした彼女は、ブーケの真ん中に咲く百合の様だった。
化粧っ気も無く、白いシャツにパンツという出で立ちだが、姿勢がよく、艶のある髪に顔立ちもはっきりしていて、それなりの格好をしたら逆にこの辺では浮いてしまうかもしれないとも思った。

 

「ねえ、先生。こっちに来て!」

彼女は花畑の真ん中で手を振っている。私は言われるがままに歩みを進めた。辺りには誰も居ない。彼女のそばまで辿り着くと、もはや世界には、彼女と私だけしか居ないような感覚さえした。

「なんだい。てんとう虫でもいたかい。」

「いないわよ。それどころか、ここには私とあなたしか居ないの。」

自分が思っている事を、言い当てられた様な気分。

「この花はね、わすれ草とも言われてるの。花が一日で枯れてしまうって言われてるから。」

私の目を見て話す彼女は、笑顔に少し憂いのある表情を浮かべていた。

「あなたの人生からしたら、佐渡の日々なんて一日みたいなもので、きっとすぐ忘れちゃうと思うけど、毎年この季節になったら、今ここに広がる景色を思い出してよね。花は毎年必ず咲くから。」

彼女の目は、心なしか潤んでいた。その瞳の澄んだ美しさに、私は見惚れてしまった。

「そんなのは、別れる男に言う台詞だよ。それに、花より君の強烈な個性の方が、ぼくの記憶には残りそうだ。」

「何よ。ちょっとくらいロマンチックな気分にさせてくれたって良いのに。」

彼女はぷいと後ろを振り向くと、そのまま歩いて行ってしまった。彼女の謎めいた魅力に振り回され、私は皮肉な言葉で精一杯抵抗するしかなくなっていた。

 

花畑から帰ると、すっかり辺りは暗くなっていた。

「綺麗だったなー。名作と花はいつでもセットよね。」
「そうかねえ。僕は、そうとも思わないけど。」
「ということはもう少し勉強が必要ね。花も、名作も。」
おとなしくしてりゃ美人なのに。
コーヒー屋の店主の言葉を思い出す。
「今日は解散。また、会える?」
「え、ああ、君が良ければ、僕はいつでも。」
「そういえば、休暇中でしたね。そしたらまた連絡するわ。」
不思議な感覚だった。自分の尊厳を逆撫でする様な事ばかり言われているのに、こうして一人になると、まだ話していたいという気持ちになる。この感情にはまだ、説明がつかない。

前回朱鷺を観に行ってから、彼女から何度か連絡が来るようになり、その度に私たちは様々な場所に出掛けた。佐渡金山の洞窟、島を一望できる展望台。その度に彼女との距離は近くなった。まだ自分の感情は説明出来ないが、確実に言えるのは、彼女と話していると、少しずつ自分の事が炙り出されていく様な気がした。知りたくなかったことも含めて。だからこそ彼女に惹かれながら、同時に反発してしまうのかもしれない。
その日は金曜日、以前の蕎麦屋で夕食となった。

「もう、だいぶ回ったわね。一ヶ月もしたら、行けるとこは行き尽くしちゃう。ちっちゃくて、退屈なとこ。」
「そこが良いじゃないか。一度に海も山も味わえるし。」
「ちっちゃくても良い、広くても良い、雨が降っても良い、晴れても良い、これも良い、あれも良い、って何でも良いんじゃないの。」
「些細な所に魅力を見つけられる人だって言ってくれないかな。」
「でも、そういう所が好き。」
「え?」
好き、という言葉に対するあらゆる返事のなかの、考え得る最低得点を叩き出してしまった。ここまでくると我ながら才能なのかと思う。
「あなたが好きよ。」
「すっとんきょう」という言葉の漢字を思い出した。彼女は、酔っているのかもしれない。今日は店に入ってからずっと酒を飲んでいた。
「軽率に言うもんじゃないぜ。そうやって男の気持ちを弄ぶと、いずれ自分の首を絞める事になるんだから。」
落ち着いた言葉で反撃したつもりだったが、心の中は、酷く動揺していた。
「どこに弄ぶ相手がいるんだか。ちょっとは都会に出て遊んでみたいもんだわ。」
「そうだ。少し痛い目に遭った方が良い。君ならきっと、持て囃されるだろうから。」
黙ってお猪口を飲み干す。
「ねえ。この前言った紀行文はどうなったの?進んでる?」
「ああ、書いてるよ。でも、やっぱり起伏が無いな。今のところただの日記だ。」
「ここに来て、あんたの気持ちは変わらなかった?」
「変わったさ。都会の慌ただしさとは比べ物にならない雄大な時間感覚。それに、君に会って、色々な文学に出会い、自分の考え方もガラッと変わった。」
「どんなところ?」
「今までの僕は、自分の卑小な部分を直向きに隠していた。創作に励む者は、壮大な思想を持ち続けていなければならないと。だけど、数々の名作は、身近なモチーフを取り上げている。むしろそこに意味を見出すことこそが作家の役割なんだと。」

「それを書いたら良いじゃない。周りの景色は平凡でも、感情の移り変わりを描いたら、それは立派な起

伏よ。」
彼女の言葉は、常に本質を突いている。悔しい位に。喜びや感謝より、自分が一人でその答えに到達出来ない事への悔しさ。
「君は、何か書いたら良い。きっと僕よりずっと偉大になれるよ。」
「言うに易しね。あたしにはそんな暇も気力も無いわ。」

「どんな出来事だって仕事にするんだ。作家に暇なんて無いさ。」
「そう。じゃあ今もあなたは仕事中ってことね。ご苦労さま。仕事のし過ぎで倒れないと良いわね。」
「もう倒れたさ。じゃなきゃここに居ないんだから。」
「仕事熱心な作家先生に乾杯ね。」

この日は私の佐渡生活の中で最も遅い夜となった。

その晩から私はまた書斎に閉じこもり、黙々と書き続けた。ある種、暗い洞窟の中に一筋の光が差し込んだような気持ちだった。その方向に進めば外に出られると、そう確信できる光。その出口が幸福に続く出口なのかは分からない。ただ、ここに来て、自分にとって何が幸福なのか、深く考え過ぎない事にした。大事なのは、自分の能力で最大限できる事を続ける事。今の自分が出来る事は、書くと言う事だけなのだ。それは絶望では無く、ある種私にとって生きる意味となった。
半分くらいまで書き終えると、そのまま私は原稿を編集者に送った。
「今書いている紀行文を送ります。まだ途中ですが、短編にするつもりです。」
本文を書いた後、少し躊躇った。もし帰って来なければ、私の作家人生は終わるのだろうか。もう少し推敲してから、それとも完成させてからのほうが良いのではないか。いや、もうどうでも良い。返事が返って来なければ、私も帰らない。それだけの事だ。意を決して送信ボタンを押した。
メールが送信されると、雨上がりの空の様に心が瑞々しく晴れやかになっていくのを感じた。私はそのまま布団に入り、眼を閉じた。

 

 

明朝、私はけたたましい着信音で目を覚ました。眠気まなこで電話に出る。
「もしもし。午後どこかで時間を取れませんか?送っていただいた原稿の打ち合わせをしましょう。」
この男は、私が休職中なのを忘れてしまったのだろうか。最早あまりの忙しさに、原稿を送った私が私  であるのを覚えていないのかもしれない。

「すみませんが休職中ですから今日の今日というのは。それに今は佐渡にいるので。」

「佐渡?佐渡ヶ島の佐渡ですか?なんでそんなところに。」
「金山と朱鷺の佐渡です。すぐには戻れません。」
「とにかく言えるのは、あの一稿は非常に良かった。一作目と二作目の課題点を克服して昇華させています。だから方向性がぶれない様、早めに擦り合わせておきたいんです。今回は必ず出版させます。できれば短編と言わず長編にして貰いたい。編集長には言っておきましたので。来週の月曜までに戻って来てください。後ほどメールも送ります。」
私の心の中で、編集者の独善的な態度に対する苛立ちと、原稿が認められたことに対する安心感が交錯した。来週の月曜。逆算すればあと三日でここを出なければならない。療養のための一時滞在なのだから、何も嘆くことは無いはずである。
ここの住人とどれだけ親しくなったとして、いずれ訪れることだと言う事は、誰もが承知している事だ。それでもやはり、彼女の存在が気がかりだった。東京へ戻る事は、彼女との別離を意味する。居ても立っても居られなくなり、彼女に連絡をした。
「明日、会えるかな。港の蕎麦屋で。」
翌朝、まず住職に報告をした。
「本当ですか!今、僕の心にあるのは祝福と安堵の気持ちです。そんな良い形であなたをお見送りできて。」
「それにしても急ですがね。」
「東京の人は忙しいんでしょう。それもある意味イメージ通りです。」
昼間はコーヒー屋に行ったが、所用のため臨時休業となっていた。別れの挨拶は出来ずじまいだが、それも彼らしいと思った。予定を変更して、一度寺に戻る。
夕方になって、私は早めに蕎麦屋に着いた。十分程して彼女が店に入って来る。
「珍しく呼び出したりしてどうしたの?書いた本でも見せてくれるのかしら。友だちに呼ばれてるから、少ししたら出るわよ。」
私は安心した。彼女の周りには、多くの交流がある。家族、友人、職場。私といる時はいつも私と二人だから、彼女にとって自分という存在が非常に大きな割合を占めているのだと錯覚してしまう。しかし、本当のところ私は彼女にとって、付き合って日の浅い、一人の男に過ぎず、ほんの些細な存在なのだ。
「君が言ってくれた通りに書いた原稿が、出版されることになりそうだよ。」
彼女は感情の読めない目をしながら、小さくゆっくりとうなづいた。
「ふーん。良かったじゃない。偉大な先輩たちのおかげね。」
「そうじゃないよ。いや、そうでもあるんだけど、君のおかげだ。ありがとう。」
私は、率直な気持ちを伝えた。
「あたしに印税を分けるって話?悪いけどお金にはそこまで苦労してないのよ。」
「そうじゃなくて。つまり、東京に戻るんだ。」
「そう。埃と欲望の街に帰る訳ね。」
彼女は表情を変えず、何度か小さく、ゆっくりとうなづくだけだった。
「正直に言うと、ぼくは君に、何度も救われた。佐渡に着いた頃、ぼくの精神は擦り減っていた。そこに潤いを与えてくれたのが君だった。ぼくの知らない世界を大きく広げて見せてくれた。」
「初めは正直、君の言葉が刺さり過ぎて、受け入られなかった。本当の事を言われ過ぎて、傷つくのが怖かった。でも。」
私は一呼吸置いて続けた。
「いつの間にか、君の言葉を聞きたくて仕方が無くなった。君の目を、何度も見たいと思った。そしてこの時間がずっと、続けば良いと願う様になった。つまり、君の事が好きなんだ。」
言い終わった後、しばらくの沈黙が続いた。永遠に続くかの様な、長い沈黙。

「違う。」
想像もしていなかった言葉に、私はまた腑抜けな返事をしてしまった。
「え?」
「違うわ。あなたは私のことが好きなんじゃない。好きなのは、自分の創作を打ち砕き、再生する存在。自分を創造者として昇華させてくれる存在よ。それが、この時期たまたま出会った私だっただけ。それに、私は何も優れてない。たまたまあなたの知らない事を私が知っていただけ。それをあなたが買い被っているのよ。」
今度は小さく首を横に振りながら、彼女は続けた。
「作家って、もっと恋愛も鬱屈して捻くれてるもんかと思ってたのに。それじゃ女の子みたいよ。」
寂しさと慈しみに溢れていた感情の器が、ぐつぐつと沸騰し始める様な気がした。
「少女的思想は、君の方だ。君はずっと僕に近づく振りをして、作家という君の虚像を僕に投影していたんだろう。自分の納得のいかない事は、とことん修正させて思い通りにする。おまけに粗野で言動も粗い。文学を愛するならば、都会的に洗練されても良いのに、知識を山積みにして一層雑然としている。
私は沸騰した感情に任せて続けた。
「君こそ、僕の事を好きだと言ったが、そうじゃない。君が好きなのは君が思い浮かべる作家だ。結局のところ、自分の事が好きなんだ。」
「そう。じゃあお互い様ね。」
そこで彼女は初めて悲しい表情を浮かべた。
その潤った瞳、すぼんだ口元。うなだれると分かる、艶やかな髪。その全てが美しかった。
「これを君に。君はいつも僕に借りを返させてくれなかったから。これはせめてものお礼だ。」
そう言って私は薄い紙の束を渡した。それは昨日編集者に送った原稿だった。
「貸しなんて作った覚えもないけど。読んでおくわ。じゃあね。」
彼女はゆっくりと席を立った。
「あなたがさっき、あたしが好きなのはあなたではなく作家だと言ったけど、あたしが好きだったのは、むしろあなたのその作家らしくないところよ。話が上手くなくて、すぐどもっちゃうみたいな人間の部分。本当はね。」
静かに店の扉を閉める姿は、寂しさとも悔しさとも言える様な佇まいで、その姿を見て、私もだ、なんて主張は、出来なかった。さっきの悲しい表情を見て確信したんだ、君の事を愛している、と。
またいつもと同じ様に私は彼女を呆然と見送った後、寡の様な顔をして店を出た。タクシーが一台、霊柩車の様に店の前で停まっていた。

 

 

「短い間でしたが、なんだかんだで寂しいものですね。またいつでも来てください。できれば療養ではなく観光で。」
「本当にお世話になりました。逆にこちらに来る用事があったらいつでも連絡してください。考えられる最大のもてなしをしますよ。」
「信仰ある人の間に、貸し借りはありません。でも、ご連絡は差し上げます。」
「住職らしい。それでは、また。」
汽船が轟音をかき鳴らし、出発の合図を告げた。笑顔で手を振りながら、汽船に乗り込む。
島がだんだんと遠くなる。少しずつ霧がかかり、見えなくなっていく。その姿を見つめながら、ここで過ごした日々が走馬灯の様に浮かんでは消え、何度もそれを繰り返した。
黄泉の国から迎えが来た様な、と同時に、楽園から地上の世界に引きずり降ろされる様な、得も言えぬ感情が沸き起こった。
いずれにせよ、元の生活が再び戻って来るとは思えなかった。帰ったら、ひょっとしたら全く別の世界が待っているのではないか。それ位、あの島での日々は私の頭をすっかり変えてしまったのである。

 

 

「一つ、質問しても良いですか?」
とある書店では、新作の発売を記念したサイン会が行われていた。三十代から六十代くらいの男女、少し女性が多いかもしれない。が、列を作っていた。
「もちろん。あなたは私が一番大切にしたい、物好きな方々の一人ですから、」
「ありがとうございます。野草を読んで、すっかりファンになりました。あのヒロインは、やっぱり先生の初恋のお相手だったんでしょうか?」
「とても良い質問ですね。それは、あなたの思い描く私がそうだと言っているなら、きっとそうに違いないでしょう。私も多くの作家と同じ様に、経験から物語を創り出すのです。」
「ありがとうございます!」
「感想はご友人や周りの人にどんどん話してくださいね。」
そう言いながら、何度も練習したサインを、慣れた様な振りをして書いていく。

「お疲れ様でした。予想以上の反響ですよ。」
「それはある種失礼じゃないですか。私の本って、こんなに人気でしたっけ?」
「いやいや、そんな事は。先生には、熱心な読者がある程度ついていますよ。それも全国に。」
少しずつ棘のある言い方をする編集者にやきもきしながら、私は帰路に着いた。

佐渡から帰ってからは、光のような速さで時が過ぎて言った。帰ってすぐ、作品の方向性を決める打ち合わせが行われた。そこには編集長もいた。そこで私の作品は長編として半年後、出版される事が決定した。手っ取り早く決断を下したい時、決定権を持つ人物を意思決定の場に同席させる、編集者は仕事人という側面では優秀なのかもしれない。
急遽長編として話を伸ばした為に、執筆は作業として異常な程の体力を必要としたが、編集者に二稿を提出してからは、案外と躓くことなく完成する事ができた。
しかし、作品が完成し、思考する余裕が出来ると、どうしても脳裏にあの時の事を思い出してしまうのであった。
彼女との最後の食事。あの選択は、間違っていたのではないか。
「一緒について来て欲しい。君が必要なんだ。」
その言葉が、ずっと頭の中にありながら、予想していなかった展開で怒りや悲しみや色々な感情が交錯し、伝える事ができなかった。いや、そうじゃない。彼女のあの反射的挑発が無かったとしても、私はそれを伝える事が出来なかっただろう。それは、拒絶への恐怖心である。自分の本当の願いを伝えた時、それを正面から否定される事を恐れた。初めに声をかけられた時からいつも、私は後出しだった。声をかけられたから話す。蕎麦屋に誘われたから行く。好きだと言われたから、好きに、なったのだろうか。それは分からない。でも、最後まで自分の意思が拒絶される事を恐れ、本当の願いを伝える事が出来なかった。好きだと伝えれば、よもや、着いていくと相手が切り出してくれるかもしれない?そこまで意識的に考えていたわけではないが、結果としてそれと同じ期待があったのかもしれない。それを考えるとどうにも遣る瀬無く、自分の卑小さに気が狂いそうになった。
そんな思考を少しでも抑えるべく、取り憑かれた様にひたすら書き続けた。

新作の発表も終わり、馴染みの喫茶店で次回作の構想を練っていると、ふと一件の通知が鳴った。
「久しぶり。新作発売おめでとう。今週土曜日に東京に遊びに行くから、美味しいところに連れてって。」
それは、彼女からの連絡だった。実に半年ぶり。佐渡で別れてから一切連絡を取っていなかったので、私は非常に動揺した。
「久しぶり。今度こそ奢らせてもらうよ。午後7時に品川で。」
送信した後も、心のざわつきはしばらく収まらなかった。

 

「何、お洒落なフレンチにでも行くのかと思ったら。」
「君と僕には、こういうところがお似合いなのさ。それにここの蕎麦だって結構美味いんだ。」
私たちは、品川の和食屋で再会した。半年ぶりに会う彼女の姿は、ずっと大人びていた。白いワンピースにヒールを履き、暗い茶色の髪は半分結われていた。かすみ草のピアスがより一層、彼女に馴染む。
元々整った顔立ちをしていたが、こう見ると、もはや彼女が新潟の島からやってきたなどと、誰も思わないのではないかと思うほど垢抜けている。
「どうしたんだい突然。東京に用事があったの?」
「あんただって突然出てったじゃない。東京ってのは突然来るもんなのよ。」
どれだけ垢抜けた格好をしても、喋るとやはり彼女は彼女なのであった。
「改めてだけど、おめでとう。でも前半の部分は私にくれたのと、ほとんど変わってなかったわね。」
「それが僕の恩返しだよ。あれは半分君の作品だ。」
「どうせ、編集者から強く言われたらおいそれと変えちゃうんでしょ。それに、後半の方はだいぶ間延び感があったけど。」
「相変わらず辛辣だな。仕方ないよ、本当は短編にするつもりだったんだから。」
蕎麦が出されると、彼女は麺を一気につゆに入れ、ずるずると啜った。
その姿を見て、私は確信した。今日で最後にしたくない。これは、与えられたチャンスだ。言えなかった事を伝える最後の。
「僕は、知っての通り情けない男だ。」
蕎麦を食べる手を止め、彼女が顔を上げる。
「だから、言うべき時に言う勇気が無かった。今更かもしれないけど、君と一緒に居たい。僕の近くに居てくれないか。」
私は思っている事を、率直に伝えた。彼女は、私を見つめた。
「ありがとう。本当の気持ちを言ってくれて。」
彼女は笑った。しかし、その瞳には悲しみの色が見えた。花畑で見た、憂いを浮かべた顔。

「でも、東京には居られない。私、結婚するの。」
あまりの驚きに、しばらく声を出す事も出来なかった。
「ずいぶん、早い決断だね。」

「そんな事ない。島の女には、選択肢が限られてるのよ。私の歳になったら、大抵の人は結婚してる。田舎の人間にとって、結婚は免許みたいなものよ。いつまでも身分証なしじゃ暮らせない。」
「君は免許にうるさいね。でも、こんな事を言ってしまって申し訳ない。」
「あんただってモグリはやめたでしょ?ううん、私、嬉しかった。正直、あれ以来ずっと後悔していたの。どうして素直になれなかったんだろう。せっかくあなたが気持を伝えてくれたのに、なんであんな返事しかできなかったんだろうって。」
俯く彼女の瞳から、涙が流れ落ちた。
「あれから、私ずっとあなたに会いたかった。会って素直な気持ちを伝えたかった。でも・・・。」
私は彼女の手をとった。
「感傷的になるのは止めよう。今日は君の結婚祝いだ。祝杯をあげようじゃないか。」
そう言って、彼女のお猪口に出羽桜を注ぐ。彼女は、それをぐっと飲み干した。
「おいおい、もっと嗜んでくれよ。安い酒じゃないんだから。」
「今日はあなたの奢りでしょ。それに、独身最後の日本酒くらい、好きに飲ませて頂戴な。」
涙を浮かべた彼女の笑顔は、堪らなくいじらしかった。ずっとこのままで居たいと思うと、目頭がぐっと熱くなった。
「感傷的になるのはよすんじゃないの?作家ってのはやっぱり分からないわ。」
「嬉し涙に決まってるじゃないか。次の本のタイトルは、独身最後の出羽桜に決まったよ。」
「ほんと皮肉屋ね。大将、おかわり!」
私と彼女は目を合わせて笑った。

和食屋を出ると、外の風がちょうど良く、心地よかった。
「この時間なのにまだこんなに人が居るのね。本当にこの人たち寝ないつもりなのかしら。」
「東京の夜は、これからなんだよ。」
「田舎娘はおねむの時間ね。」
彼女は大きなあくびをしながらゆっくりと歩いた。
「ちょっと寄り道しないか。せっかく東京に来たんだし。」
「金山と鳥がいるとこ以外なら、どこでもどうぞ。」

私たちは、近くにある公園まで歩いた。彼女は芝生でヒールを脱ぎ、裸足になった。
ヒールというのは不思議な道具だ。あれだけ大人びて見えていた彼女が、魔法が解けたように少女へと姿を変えた。
「この際だから全部言うよ。君の目、君の髪、君の言葉、全てが好きだ。最初に会った時から、今もずっと。」
「私もあなたが好き。皮肉屋で、斜に構えてるようで、本当はすごくピュアで、面白い人。」
「言えば言うだけ悲劇だね。結婚おめでとう。お幸せに。」
「あなたもこれから忙しくなるわよ。あたしの事なんて忘れちゃうくらい。」
「忘れないよ。忘れたくてもね。」
私たちは目を閉じ、キスをした。どれくらいの時間だろうか。時間にすれば数秒かもしれないが、私はその時確かに永遠を感じた。
目を開けると、彼女は泣いていた。その瞳の輝きは、どんな宝石にも例えがたい美しさだった。
「あなたに渡したいものがあるの。」
彼女はまだ瞳に涙を残しながら、鞄から何かを取り出した。

「ちょっと古いけど、家にあったから。あなたに必要なものよ。」
それは、分厚い植物図鑑だった。
「野草なんて無粋なタイトルはやめてよね。出羽桜もおんなじよ。」
「相変わらず辛辣だな。」
「次の発表に期待してるわ。」
「その時は流石に印税を払うよ。」
「5割で我慢してあげる。」
「5割!売れれば売れるほど赤字だな。」
二人は笑った。

 

 

東京の街は、相変わらず忙しい。三作目を発表してからも、文芸雑誌のインタビュー、本のレビュー依頼に応えながら新作を書き続ける毎日。
しかし今は、その忙しささえ、尊いと思える。過去の感傷に浸る暇もない事はある意味で幸福だ。
そんな事を考えた時、ふと、彼女のくれた植物図鑑の事を思い出した。そういえば、もらっただけで読んでいない。
取り出すと、彼女との思い出が蘇る。花畑の真ん中に輝く、彼女の姿。だがしかし、お互いの気持を打ち明けた以上、後悔や絶望はない。確かに古く、紙は日焼けしているが、大切に保管されていたのだろう、破れたりもせず、読むのに問題ない状態だ。
中を開くと、花の名前とイラストが五十音順に並んでいる。ふと、ちょうど真ん中あたりに付箋が挟まっていることに気づいた。
付箋がされているところを開くと、そこはミモザのページだった。
まさにそれは、控えめな美しさと、しなやかな強さを併せ持った花。

私が処女作でたどり着けなかった答え。この花を、次回作のタイトルにしよう。

「5割か。高くつくな。」

私は図鑑を閉じ、再び書斎に戻った。                                                 おわり